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【美輪明宏】銀巴里に集った思い出の人たち―岡本太郎、三島由紀夫、菅原文太について

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今日は私が40年間出演していた、シャンソン喫茶・ライブハウス銀巴里についてお話いたします。今年で銀巴里が閉店してから25年になるんですね。

 

ついこの間、他局ですけども、レギュラーで出ている番組で、関ジャニの坊やたちと一緒に銀座を歩く番組をやってまして、銀巴里のあったところまで行ったんですよ。銀巴里は銀座7丁目の角にございまして、みんな「えーっ!喫茶店なのに石碑までたってるなんて」なんて言ってました。

 

今はもう喫茶店は跡形もありませんけど、石碑が立ってるんですよ、「銀巴里跡」ってね。たかが喫茶店なのに石碑が立ってるなんて名誉なことでしょ?嬉しかったですね。

 

私が17歳の時から、そこで40年間ずーっと歌ってまして、有名になってからも出るようにはなるべくしてたんですけど、いろんな思い出があってね。

 

私の周りにいろんな人たちが集まってきてくれまして。岡本太郎さんって言う素晴らしい絵描きさんですけど、あの方はパリに長くいらして、フランス語が堪能でいらしたんで『パリの屋根の下』というシャンソンをフランス語でお歌いになるんですよ。「僕にも歌わせて」って言って飛び入りで歌ってらして。「芸術は爆発だ」なんてふざけてましたけど、あれはサービスなんですね。あのコマーシャは。

 

本当はやっぱり岡本かの子の息子さんだけあって礼儀正しくて、きちっとした思いやりの優しい紳士でしたよ。一緒に北海道に、スピーチの公演の仕事で出かけたりしましたけど、本当に終始一貫して紳士でしたね。

 

その他、江戸川乱歩さんも17代目の中村勘三郎さんに連れられてみえて、そしてその後で、三島由紀夫さんが新進作家として見えて、その後川端康成さんをお連れになりまして、川端さんはもう大御所でいらしましたけど。

 

それから第3の新人て言われてた遠藤周作さんとか、吉行淳之介さん、安岡章太郎さんもいらっしゃいました。寺山修司さんはまだ高校生でして、野坂昭如さんはまだ海ものとも山のものともつかない、フラフラしてましてね。しまいにはお入場料払ってくるよりも、シャンソン歌手になったほうがずっとただでいられるからって、シャンソンを最初の頃はお歌いだったんですね。

 

菅原文太さんは早稲田の学生で、つい隣の8丁目の方で、SOSっていうモデルグループを作って、そこでトップモデルになって、そうしていろいろやって。優しいお兄さんで、本当にやさしい人でしたよ。

 

とにかくいろんな思い出があるところでございます。

 『愛しの銀巴里』

では、その銀巴里のことをつべこべ述べるよりも私の思いを歌にしたもので、もうずいぶん昔に作った歌でございますけどね。『愛しの銀巴里』という私の作詞作曲の歌がございますんですよ。

 

もし本当に銀巴里が無かったら、私の人生はどうなっていたか想像もつきませんね。ではお聞きいただきたいと思います。そういう天才たちや、一般の方でもただものではない、政治経済、美術、音楽、スポーツ。どんな話をしても丁々発止と言われるだけのレベルの高いお客様。サラリーマンも学生も、タバコ屋のおばさんも、いろんな商店街の人もみんなそのレベルの人が集まっている素敵な時代でしたね。

 

今でもそういう所ができるといいですね。まぁそれを願いながら私のレコードをかけさせていただきましょう。歌は美輪明宏、『愛しの銀巴里』

 

TBSラジオ『薔薇色の日曜日』2015年11月29日放送分より

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